見積もりを取り、条件を詰め、契約を交わす作業を、AIエージェントが代わりに担い始めています。 経済学では、こうした作業にかかる費用を「取引コスト(取引費用)」と呼び、企業が存在する理由を説明する中心の概念としてきました。 ただ、AIエージェントが下げるのは市場での取引コストだけではなく、社内の調整コストも下げるため、外注が増えるとは限りません。
この記事の目次(6節)
米NBERのAI経済学論文集、2章をAIエージェントに充てる
2026年9月、全米経済研究所(NBER)は、経済を一変させうるAIを主題にした論文集をシカゴ大学出版局から刊行しました。 全16章のうち2章をAIエージェントに充て、別の1章で企業を取り上げています。 論文集では、AIが企業組織のあり方まで変えるのかも論じています。1
ここでいうAIエージェントとは、人に代わって状況を読み取り、判断し、行動するAIシステムです。 取引の相手を探し、交渉し、取引を成立させるところまで担うものもあります。7
国内でも、企業向けのAIエージェント市場が急速に広がっています。 デロイト トーマツ ミック経済研究所は2026年7月、国内のAIエージェントソリューション市場の見通しを示しました。 2025年度は2,130億円、2026年度は4,140億円、2027年度は8,400億円で、2年連続で前年度のほぼ倍になる計算です。 同研究所は、市場拡大の背景に人手不足があり、需要の中心が「汎用チャット利用」から「業務プロセス実行」へ移っていると分析しています。 数字は、ベンダー17社への聞き取りと、導入済みまたは導入を検討している600人への調査を基に推計しました。2
内製か外注かを分ける取引コスト
取引コストとは、取引の相手を探し、条件を交渉し、契約を結んで、約束どおりに履行されたかを確かめるまでにかかる費用の総称です。 材料の代金や外注費とは別に、こうした手間も費用のうちです。 経済学では、ある業務を内製するか外注するかは、市場で取引するコストと社内で賄うコストを比べた結果で決まると考えられてきました。
なぜ企業は存在するのか、コースの問い
英国出身の経済学者ロナルド・コースは、1937年の論文「企業の本質」でこの考え方を示しました。4 市場で取引するたびに、価格を調べ、交渉し、契約を結ぶコストがかかります。 企業の中なら、指示で仕事を割り振れるので、こうしたコストを省けます。 一方で、企業の規模が大きくなるほど社内の調整コストは増え、経営者の目も届きにくくなります。 コースによれば、企業は、追加の取引を社内で行うコストと、市場で行うコストが等しくなる規模まで大きくなります。5 コースは、経済の制度と機能にとって取引コストと財産権が重要であることを示した業績で、1991年にノーベル経済学賞を受賞しました。3
ウィリアムソンと資産特殊性
では、どんな取引が企業の中に取り込まれやすいのでしょうか。 米国の経済学者オリバー・ウィリアムソンは、1970年代の初めから、この問いに答える理論を築きました。 取引が複雑で定型化しにくく、当事者の相互依存が強いほど、企業はその取引を内部に取り込む(垂直統合する)としました。 典型は、その相手との取引でしか役に立たない設備や知識を、どちらかが持っている場合です。 この性質は「資産特殊性(関係特殊性)」と呼ばれ、ほかに替えのきかない関係を指します。
よく知られた例が、炭鉱と、そのすぐそばに建つ石炭火力発電所の関係です。 ノーベル財団が紹介する研究では、炭鉱の隣に建つ発電所のうち、炭鉱と同じ会社が運営している割合は、ほかの石炭火力発電所の約6倍でした。 ウィリアムソンの理論は、ほかの多くの産業でも実証されてきました。 ウィリアムソンは2009年にノーベル経済学賞を受賞しています。6
AIエージェントは、企業の境界をどちらに動かすか
AIエージェントが下げるコストは2種類あり、下がったときの効果は逆の方向に働きます。 どちらの効果が大きいかは、まだ結論が出ていません。
市場で取引するコストが下がる
論文集の「The Coasean Singularity?」の章で、ジョン・ホートン(John J. Horton)氏ら5人の研究者は、AIエージェントを市場の参加者として捉えています。 AIエージェントが相手探しや交渉を担うことで、探索・やり取り・契約のコストが下がり、市場の効率が上がるとみています。 一方で、取引の場に依頼が殺到して混み合う「混雑」や、価格が見えにくくなる問題も生じると指摘しています。 使う側は、手間が省ける利点と、判断の質が落ちるおそれとを比べて、AIエージェントを使うかどうかを決めるとしています。 社会全体として得になるかどうかは、今後の検証課題だとしています。7 この章のもとになった論文は、2025年11月にNBERのワーキングペーパーとして公開されました。学術誌の査読を経た論文ではありません。
社内で調整するコストも下がる
同じ論文集で、ジリアン・ハドフィールド(Gillian K. Hadfield)氏とアンドリュー・コー(Andrew Koh)氏は、AIエージェントが企業を大きくする方向に動かす可能性を指摘しています。 コースが示したように、企業の規模は、社内の調整の難しさで頭打ちになります。 人が言葉で伝えられることには限りがあり、経済学はまた、人は放っておけば手を抜きがちだという前提を置いてきました。 AIエージェント同士なら情報はほぼ一瞬で伝わり、手を抜かないように作ることもできるかもしれません。 そうなれば企業規模の上限が上がり、産業構造が大きく変わりうると論じています。8 この論文は、2025年9月にプレプリント(査読前の論文)としてarXivで公開されたものです。
ここから先は想像です
まずAIエージェントに任されるのは、定型的な取引の事務だろうと考えます。 例えば、住宅のリフォームを請け負う工務店が、資材を発注し、職人を手配する場面を例にとります。 いまは付き合いの長い業者に電話で頼むことが多く、相見積もりを取るのは一部の資材だけです。 数年後には、AIエージェントが複数の業者に見積もりを依頼し、返ってきた見積書を比べ、2社に絞って担当者に渡すかもしれません。 その手間が減れば、長年1社に任せてきた仕事も、毎回相見積もりで発注先を決めるようになるかもしれません。 コースの見方でいえば、外注の範囲が広がることになります。
ただ、ウィリアムソンの見方を当てはめると、外注しやすくなるのは定型的な取引に限られそうです。 「この大工はこの納まりをこう仕上げる」「この業者は急な変更にも応じてくれる」といった知識は、長年の取引の中で蓄えられます。 こうした知識は、見積もりのように並べて比べられません。 定型の取引が外に出ていくほど、社内に残るのは「よそでは役に立たない知識」に絞られていくと考えます。
10年ほど先には、受注側の会社が、AIエージェントから大量に届く依頼への対応に追われているかもしれません。 依頼の手間がほぼなくなれば、見積もりの件数だけが増え、発注は増えない事態も起こりえます。 ホートン氏らが挙げた「混雑」は、こうした形で現れるのでしょう。 そうなれば、「AIエージェントからの見積もり依頼は、この様式と窓口で受け付けます」と決める会社が出てくるはずです。 見積もりを有料にする動きが生まれることも考えられます。
さらに先には、企業の範囲が、雇っている人よりも、AIエージェントに与えた権限で決まるようになるかもしれません。 どのAIエージェントが、いくらまで、誰の名義で契約してよいか。 その判断の基準を決めることが、経営者の大事な仕事になるでしょう。
一方、社内の調整コストが下がる効果のほうが大きければ、多くの仕事を社内に抱える大企業が有利になります。 どちらに振れるかは、業種や取引の中身によって分かれるのではないでしょうか。
この未来が近づくなら、先に現れる兆し
- 仕入れ先や外注先が、AIエージェントからの見積もり依頼や発注を受け付ける窓口や様式を用意し始める
- 受注側の会社から、見積もりの依頼は増えたのに受注につながらないという声が出る
- 業務委託契約や取引基本契約に、AIエージェントが発注や契約締結をした場合の扱いを定めた条項が入り始める
- 同じ業種の中で、外注を増やす会社と、内製化を進める会社がはっきり分かれる
自社で試せること
外注している業務を5つほど書き出し、それぞれに次の2点を書き添えてみてください。 1つは、頼む内容が定型的かどうかです。 もう1つは、その取引先との長年の取引で蓄えた知識に頼っているかどうかです。 定型的で、蓄えた知識に頼らない業務は、AIに見積もりの取り寄せや比較表の作成を任せる候補になります。 蓄えた知識に頼る業務は、AIで取引先を替えやすくなっても、替えないほうがよいかもしれません。
次に外注するときは、1件だけでよいので、取引先探し・見積もりの比較・条件交渉・検収のそれぞれにかかった時間を測ってみてください。 どこに手間がかかっているかで、AIに任せる工程が見えてきます。
AIに発注や支払いまで任せるなら、どこまでの権限を持たせるかを先に決めておく必要があります。 freee MCPでAIに経理を任せる前に済ませる設定は、その考え方の参考になります。 AIが利用者の代わりに店へ電話をかける機能は、Geminiの「Call for Me」の記事で紹介しています。 AIの効果が業績に表れるまでの時間は、工場の電化の歴史から考えた記事で扱っています。 AIの答えをどこまで確かめるかは、過信と不信を心理学から考えた記事にまとめています。
出典
- 全米経済研究所(NBER)「The Economics of Transformative AI」(シカゴ大学出版局、2026年9月)(参照 2026-09-28)編者はアグラワル(Agrawal)、ブリニョルフソン(Brynjolfsson)、コリネク(Korinek)の3氏です。AIエージェントを扱う章は「An Economy of AI Agents」と「The Coasean Singularity?」です。
- デロイト トーマツ ミック経済研究所「AIエージェントソリューション市場動向 2026年度版」(2026年7月29日発刊)(参照 2026-09-28)市場規模は、ベンダーの売上高に基づく推計です。
- ノーベル財団「Ronald H. Coase – Facts」(1991年 ノーベル経済学賞)(参照 2026-09-28)
- Coase「The Nature of the Firm」(Economica, 1937)(参照 2026-09-28)第4巻第16号、386〜405ページ。
- ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院 Hubbard「Coase: The Nature of the Firm」(講義資料)(参照 2026-09-28)コースの論文の要点をまとめた講義資料です。
- ノーベル財団「Economic governance: the organization of cooperation」(2009年 ノーベル経済学賞の一般向け解説)(参照 2026-09-28)炭鉱と発電所の例は、ノーベル財団がウィリアムソンの業績の解説で紹介している研究です。
- Shahidi, Rusak, Manning, Fradkin, Horton「The Coasean Singularity? Demand, Supply, and Market Design with AI Agents」(NBER Working Paper 34468, 2025年11月)(参照 2026-09-28)2026年9月の論文集に章として収められています。
- Hadfield, Koh「An Economy of AI Agents」(arXiv, 2025年9月)(参照 2026-09-28)2026年9月の論文集に章として収められています。

